(1)製作について

実機は全幅: 40.0 m 全長: 25.6 mです。展示会場で観た72は大きすぎて大変そうです144が丁度いいのではないでしょうか。製作には小生が苦手な柱と張り線が一杯あって手を出すのが怖い機種なのですが、その優雅な姿に誘惑されて手をつけてしまいました。出来上がるとそれなりの満足感を味わえるキットといえます。     

(2)雑感

昭和9年日本海軍はアメリカ海軍のP2Y-1を上回る性能を持つ飛行艇として九試大型飛行艇を川西に発注した。 要求性能は九試中型攻撃機(九六式陸攻)に匹敵する野心的な要求であった。川西では橋口義男、菊原静男が開発にあたった。試作1号機は昭和11年7月14日に初飛行に成功、山本五十六航空本部長が川西鳴尾製作所にかけつけ、関係者の労をねぎらっている。昭和17年までに179機が生産された。九七式飛行艇の初の実戦は、長距離爆撃で昭和16年12月9日に、マーシャル諸島に進出した横浜航空隊所属機がハウランド島とベーカー島を爆撃した。12月31日には東港航空隊所属の6機(魚雷装備3機)がオランダ海軍の水上機母艦「ヘロン」を攻撃したが、水平爆撃、雷撃とも失敗した。昭和17年5月上旬の珊瑚海海戦でも魚雷を搭載して米軍機動部隊を捜索したが接敵せず、F4Fワイルドキャットにより数機が撃墜されている。以降は大航続力(正規 4,940 km / 偵察過荷重 6,771 km )を利用しての長距離偵察や対潜哨戒に終始した。だが大戦中期以後は低速(最高速度: 385km/時)と装甲が貧弱で被害が続出し、前線任務を後継の二式飛行艇に譲って後方での連絡・輸送に当たった。しかし終戦後も講和公使を乗せた緑十字飛行や台湾への現金輸送、離島への医薬品輸送に運用され、帝国海軍の最期まで活躍した機体となった。また、本機を10〜18人乗りの輸送機に改造したしたものが、九七式輸送飛行艇で、昭和14年7月に制式採用になり、海軍と大日本航空で終戦までに合計38機が使用された。

参考:飛行艇パイロットの回想が興味深いです。

(2011/10/16)